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アクトーレスは沈痛な面持ちで言った。
「おかしいと思ったんです。時間になってもロビンが戻ってこないなんて初めてでしたから」
何かあったのかと心配になって探しに行ったところ、茂みの中で倒れている傷だらけのロビンを発見したと言うのである。
その時既にロビンの意識はなく、すぐさまポルタ・アルブスに担ぎ込まれた。
散々に殴られた顔は見る影もなく腫れ上がり、頬骨にひびが入っていた。他にも全身痣だらけで、肋骨が二本折れており、しかもそのうちの一本が肺を傷つけていた。肛門は無残に引き裂かれ、もう少し処置が遅れていたら、一生垂れ流しになっていたかもしれなかった。
可愛い犬の身に降りかかった惨事に、男は怒りに打ち震えた。
「ロビンをレイプした男と言うのは? 名前はわかっているのか」
アクトーレスは頷いた。
「ロビンの体内に残されていた精液から、犯人は特定できました。名前はジョージ・マーティン。一応バトリキなんですが、半月前に会員になったばかりのホモ・ノヴスでして……ここのルールをまだよく理解していなかったらしいのです。主人も連れずにひとりでふらふらしているような犬は好きにして構わないと思っていたらしくて。しかもこの男は手加減を知らないサドで、この半月で既に三匹の仔犬が再起不能にされているそうです」
「何てことだ」
男は額に手を当て、ベッドに横たわってぴくりとも動かないロビンを痛ましげに見遣った。
「その男を告訴する。手配を頼めるか」
「勿論です」
アクトーレスの表情にも怒りが滲んでいる。
「ヴィラのルールを破った者には、相応の報いがあると言うことを、この若造に思い知らせてやりますよ」
人気の犬、ロビン・オコーネルが、入会したての若いバトリキにレイプされたと言う話は、あっという間にヴィラ中に広まった。
彼を手に入れたいと切望しながらも、虚しく指をくわえているしか出来なかった者達は、揃って怒りの声を上げ、彼を犯したジョージ・マーティンへと非難が集中した。
この周りの過剰とも言える反応に、当のマーティンは驚いたらしい。
他人の犬を勝手に犯せばペナルティーがつくと言うことは最初に聞いたような気がするが、たかだか犬の一匹や二匹をちょっとレイプしたからと言って、特権階級のバトリキである自分がとやかく言われることなどないだろうと高を括っていたのだ。
しかし、彼が犯した犬はただの犬ではなかった。彼と同じ──否、彼よりも古くからの常連であるバトリキが最も目をかけて可愛がっている犬、それもヴィラ中の男達が目の色を変えて欲しがっている極上の犬だった。そうとは知らずにやったこととは言え、そのロビンを散々に痛めつけて犯した彼に、ヴィラ中の憎悪と非難が集中するのは無理もないことと言えた。
男は声高にマーティンの無知と無恥を責め、ヴィラからの永久追放を要求した。ロビンの数多くのファンがそれを後押しし、たちまちマーティンは窮地に追い込まれた。
だが、彼は腐ってもバトリキだった。彼がファミリアーレスやエクイテスであれば、男の要求は当然のものとして受け止められ、ヴィラからの永久追放を余儀なくされていただろうが、彼はバトリキであったが故に、幸運にも永久追放だけは免れることとなった。
結局マーティンに言い渡されたのは、向こう三年間の会員資格剥奪だった。男はそれを不服として上告しようとしたが、男の家令がそれを止めた。
「ジョージ・マーティンは既にヴィラの要注意人物としてブラックリストに載せられました。たとえ三年後に戻ってきたとしても、質のいい犬を宛がわれる事はもうないでしょう。将来性のある犬を簡単に壊されては、ヴィラとしても商売上がったりですからね。それに、もし今後同じことがあれば、今度こそ問答無用で永久追放となります。そうとわかっていて、あえて同じ過ちを犯すような愚はさすがにしないでしょう」
そう言われて、男は渋々ヴィラの決定を受け入れた。男本人よりも、周りのブーイングの方がより激しかったが、一応はそれで決着がつくこととなった。
その後、男はすぐにロビンを買い取りたい旨を、家令を通じてヴィラに伝えた。決して安い買い物ではなかったが、ロビンを手元に置いておきたいと言う気持ちは、今回の一件でより強いものとなっていた為、ヴィラに提示された金額を支払うことに、何の躊躇いもなかった。
男がロビンを見舞う為にポルタ・アルブスを訪れた時、ロビンはまだ意識を回復していなかった。
折角彼をヴィラから買い取っても、この状態ではまだ連れ帰ることは出来ない。不本意ではあるが、怪我が治って退院するまではヴィラの世話にならねばならなかった。
男は眠ったままのロビンの傍らに椅子を置いて腰掛けた。
包帯に覆われた頬に手を伸ばし、そっと触れてみる。だが、閉じられた瞼はぴくりとも反応せず、男は眉をひそめて溜息を吐いた。
こんなことになるのなら、もっと早くにロビンを買い取っておくのだった。
そう思ったが、今更言っても仕方のないことである。よもやこのヴィラの中で、ああまでここの掟を無視してくれる非常識な輩がいるとは、ましてそんな男にロビンが目をつけられるとは、予想だにしていなかったのだ。
かくなる上は、一刻も早い彼の回復を祈るばかりだ。重傷ではあったが、幸い命に別状はなく、後遺症も残らないという報告を受けていた。肛門の裂傷も、処置が早かったお陰で、問題なく治るだろうとのことだった。意識さえ戻れば、後は傷が癒えるのを待つだけでいい。それでロビンは完全に男のものになるのだ。
男はしばらくロビンの寝顔を見つめていたが、何の変化もなさそうだと悟ると、ドムス・アウレアに戻ろうと、腰を浮かしかけた。
その時、ロビンの瞼がかすかに動き、酸素マスクに覆われた口から溜息のような呼気が洩れた。
「──ロビン?」
男は椅子に座りなおし、ロビンの顔を覗き込んだ。シーツの上に投げ出されている手を握ってやり、もう一度名を呼んだ。
「ロビン」
すると、再びロビンの瞼が震えるように揺れ、一拍の間を置いた後、ずっと閉ざされていた瞼がうっすらと開いた。
男はロビンの手を握る手に力をこめ、身を乗り出した。
「ロビン。わかるか、私だ。ロビン」
瞼が腫れ上がっている為に視界がはっきりしないのか、ロビンはもどかしげに顔を歪め、ゆっくりと頭を動かして、男の方に視線を向けた。
「……ご……しゅじ……さ、ま……」
掠れた声でロビンは男を呼んだ。頬骨にひびが入っているので喋りにくいのだろう。加えて肺が傷ついている所為もあって、声を出すのも辛い筈だった。
「ごしゅ……さま……お、れ……」
途切れ途切れに言葉を紡いでは、苦しそうに顔を歪める。男は優しく微笑むと、ロビンの額を撫でてやった。
「無理に喋るな。静かに休んでいなさい」
昏睡から醒めて、自分を認識出来るくらい意識がはっきりしているのならそれでいい。そう言ってやったのだが、ロビンは小さく首を振って、苦しい息の下から、更に声を搾り出した。
「も……しわけ……あり、ま……せ……、ごしゅ……じん、さま……、ゆ、るして……くださ……」
「ロビン……?」
男はロビンの態度を訝しみ、首を傾げた。
「何を謝る? 私はお前のことを怒ってなどいないぞ」
「お、れ……は、あな……たの、犬……なのに、他の……男に……からだ、を……」
そう呟くように言って、ロビンは泣き出した。息をするのさえ苦しいだろうに、溢れて止まらない涙に喉をつかえさせ、ますます苦しげに喘いでいる。
「ばか、泣くな、ロビン。泣くと体力を消耗するぞ」
男は宥めるようにそう言いながら、ハンカチを出してロビンの涙を拭ってやったが、拭った傍から溢れてくる涙はなかなか止まらなかった。
「お……れは……悪い、犬……です……」
男は苦笑した。この犬の潔癖な忠誠心が愛しくてたまらない。
「私は何も怒ってなどいない。安心しなさい」
「で、も……」
「ロビン」
男は少しばかり語調を強めた。
「私は怒っていないと言っているだろう。主人の言うことが信用出来ないのか?」
ロビンはハッとして男の顔を見つめた。
「も、申し訳、ありま……」
慌てて謝って、また苦しげに喉を引き攣らせる。悶絶しているロビンの体勢を変えてやり、背中を擦ってやると、やがて落ち着いたのか、徐々に呼吸が整ってきた。
そのまま背中を擦ってやりながら、男は優しく囁いた。
「謝らなくていい。怒っていないと何度言わせる」
「はい……」
本当に男が怒っていないことを悟って、ロビンは素直に頷いた。男は元通りロビンを寝かせてやると、シーツを掛け直してやった。
「お前を酷い目に遭わせた男には、きっちり落とし前をつけてやったから安心しなさい。これでもうお前に不埒な真似をしようなどという輩はいないだろう。お前は何も心配せず、早く怪我を治すことを考えていればいい」
「はい、ご主人様……」
従順な返事を返すロビンを、男はうっとりと見つめた。
「とにかく今は、ゆっくり養生しなさい。私もあまり長居は出来ないが、お前の怪我が癒えるまでにはまた会いに来るから」
そう言うと、ロビンはまた寂しげに眉を下げた。
「ご主人様……もう……行ってしまわれるのですか?」
たった今会えたばかりなのに、とその目は言いたげだった。無理もない。今回男が滞在していた間、ロビンはずっと眠っていたのだから。
「心配しなくても、またすぐに来る。そんな顔をするな」
「はい……」
男の言う「すぐ」が本当にすぐなのかどうかは怪しかったが、それでもロビンには頷くしかない。
すっかりしょげてしまったロビンを見下ろして、男は苦笑した。
「ロビン、我慢しているのは自分ばかりだと思うんじゃないよ」
「え……?」
どういうことですか、と目で訊ねてくるロビンに、男はわざと厳かな口調で言った。
「お前の身柄は私がヴィラから買い取った。だから本当なら今すぐにでも連れて帰りたいところなんだが、誰かさんは大怪我を負ってとても動かせる状態じゃないときているだろう? だから仕方なく、怪我が治るまではここに置いていくしかないという、この私のもどかしい思いを、お前にも少しはわかってもらいたいのだがね」
ロビンはぽかんとして男を見つめた。突然言われたことの意味がわからずに、腫れた目を必死に見開いて、男の顔を凝視する。
「そ……れは、どういう……」
「要するに、お前は野外奴隷(クルソーレス)になったんだ。お前の代金はもうヴィラに支払ったから、私はいつでもお前を連れて帰れる筈なんだ。だが今のお前はベッドから起き上がることも出来ないだろう? 本当なら、今回帰る時はお前も一緒のつもりでいたのに、何処かの馬鹿がいらんことをしてくれたお陰で、予定が狂ってしまった」
「ご……ご主人様……」
ロビンは再び目元を潤ませて男を見上げた。
「また泣く。今日は随分と泣き虫じゃないか」
「だ、だって、ご主人様……」
ヒク、とロビンは喉を引き攣らせた。男は滲んだ涙を指先で拭ってやると、優しく額を撫でてやった。
「そう言うわけだから、ロビン、私の為にも早く元気になることだ。私はお前の為に新しい家を買って準備をしているからな」
「は……はい、ご主人様……」
この上ない幸福感に包まれて、ロビンは歓喜の涙に打ち震えた。そんなロビンを愛しげに見つめ、男はロビンが泣き止むまで、ずっと傍についていた。
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